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戦争が続いています。このままいけば世界大戦に発展しそうな様相を呈しています。
かつて先人は、次のような言葉を遺しています。
「平和を語ることは、戦争を語ることである。」
また、ある思想家は、このように語っています。
「戦争を仕掛けるように平和を仕掛けよ」
つまり、平和を維持していくためには戦争を行なうのと同じような努力が必要とされる、というわけです。しかも、それは不断の努力によって、ようやく達成される点であり、恒久的に続く線や面には、なかなかなりえないということのようです。
歴史上の人物の中で平和を求めた人の名を挙げるのはたやすいことですが、難しいことはその人たちが、やはり迫害や貧困、あるいは戦いを好む人々と戦い続けたのだという事実に気が付くということです。光の部分だけを見て水面下での苦労を推し量るということができないものです。
ところが視線を現実に戻してみると、意外なところに平和の種子を蒔いている人に気が付くものです。それはNGO活動を行なっている人であったり、それを支えたりしている人々であったりするのですが、私の周囲にも実は、そういう人がいたのです。
それが高田晴行君です。
彼は私の高校時代の同級生であり、東京で学生時代を過ごした後、岡山県警に所属し、活躍していた人物です。その後、カンボジアのPKOに自ら志願し、かの地で復興に貢献しようとしていたのですが、志半ばでポルポト派の銃弾に倒れ、壮絶な最期を遂げたわけです。それは1993年5月4日のことでした。
あれから8年が過ぎ、彼のことを思い出す人もどうやら少なくなりつつあるようです。正直、私は高校時代、まさか友人が戦死するなどと考えたことはなかったのです。
ところが、それが現実となったとき衝撃を受けるというよりも、むしろ「俺は生き残ったのだ。まだ撃たれていない」という奇妙な感覚に襲われたのを昨日のことのように思い出します。
かつて勝海舟は、歴史上の人物とはどういう人なのかという質問について、こう語ったことがあります。
「100年もすれば自分と同じような考えを持つ人物が必ず現われるのさ。その人物が自分と同じ考えを持っていた男が100年前にいたのかと驚いて騒ぎ出すのさ。それが千載一遇ということだ」
つまり、こういうことです。死んだ人のことを思い出して騒ぎ出すのは生きている人間の特権であり、しかもそれは義務である、ということです。今を生きている我々こそ亡くなった人の行動を再評価していく。それこそが真の友であり、生命を尊ぶという行為だというわけです。
今、私は万感の思いを込めて高田晴行君のことを思い出し、そして騒いでいこうと思います。それが唯一私にできることだからです。
そこで彼の志をさらに後世の人に伝えていくために下記のような趣旨で『高田晴行基金』を創設することを呼びかけさせていただきました。
名誉会長には高田晴行君のお母様である高田幸子さん、そして会長には高校、大学を通じて親友であった佐藤隆泰氏(倉敷南高校二期生)にお引き受けをいただきました。
佐藤氏は快諾をしてくれると同時に、「一日も早く高田のために記念碑を倉敷南高校に作りたいなあ」と語ってくれました。
このHPを御覧になった方でご賛同をいただける方が現われるなら、高田個人にとってもまたカンボジアの人たちにとっても幸せなことでありましょう。
ちなみに10月29日、ささやかながら数人の協力者で集めた第一回目の高田晴行基金を次のような形でカンボジアに寄付をさせていただいたことをご報告いたします。
10月27日より倉敷からカンボジア視察の旅に立たれた元岡山県議会議長であり、倉敷南高校時代の高田の恩師であった古市健三氏に寄付金をお預けいたしました。
同氏はカンボジアのUNDP(国連開発計画)駐在事務所を表敬訪問され、同基金を、
『エイズ撲滅、ならびにカンボジアの子供たちに教科書、あるいは紙、鉛筆の購入費用にあてる』
という趣旨のもと、同基金を現地スタッフに手渡してくださいました。
その後、UNICEF駐在事務所、ならびに日本大使館をそれぞれ表敬訪問され、市内にある高田晴行慰霊塔に参って下さいました。
まずは、高田晴行の意志が現地の方々に伝わったわけです。
今後もこのような形でささやかながらもできるかぎりのことを考えていきたいと思います。皆様のご協力を心からお願い申し上げます。
最後になりましたが、第一回目の寄付をいただいた下記の皆様にお礼申し上げます。(順不同)
高田幸子様
古市健三様
三宅義人様
川村理嘉様
山根 健様
今後、このコーナーでは高田晴行に関するコラムや恩師、同僚たちの彼との思い出話などを掲載してまいります。