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『不易流行と武士道V〜がん撲滅サミット〜』
 ご無沙汰しております。
 私が顧問を務めさせていただくがん撲滅サミット(2015年6月9日〈火〉午後11時30分開場、12時30分開演、パシフィコ横浜、大会長・林基弘先生)は大和魂を持った人々がオールジャパンで立ち上がるがん撲滅へのチャレンジです。
 3月より下記のHP内で『がん撲滅へのチャレンジャー』という連載が始まりました。がん撲滅に燃える日本の名医をご紹介して参ります。
 第1回目は『ガンマナイフの達人 がん治療の総合プロデューサー 林基弘医師』です。これをお読みいただければ最先端治療の実体と名医の条件、そして効率の良いがん治療についての知識が豊かになるはずです。受診前の予備知識としてもご活用ください。
 今や国民の2人に1人が罹患するがん。健康な方も身内にがん患者さんのいらっしゃる皆さんも、ぜひご一読を!
 詳細はがん撲滅サミットURL(http://cancer-summit.jp/index.php)をご覧ください。
 また1月15日には新刊『吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』が宝島社より刊行されました。お陰様で好調に推移しており、各書店の人文部門でベストセラー入りを果たしております。ありがとうございます。
 吉田松陰という謎の人物の正体は!?
 松下村塾は革命機関だった!?
 大老・井伊直弼が放った女スパイとは!?
 伊藤博文は暗殺者とスパイの二つの顔を持っていた!!
 など、吉田松陰と松下村塾に隠された謎が次々と明らかにされる歴史ミステリです。本当は恐い彼らの素顔を知ることのできる一冊として、ぜひご一読を!

 さて、ここからは吉田松陰の人生について最終回をお届けしたい。
 松下村塾を開始した吉田松陰は、激動する国際情勢に対応するため、この日本の体制を天皇の下に再度統一することを悲願とする。
 しかし幕府は威信を取り戻すため、安政の大獄という言論弾圧に打って出る。その標的とされたのが、吉田松陰であった。

 そもそも日米和親条約の締結にもとづいて、初代駐日総領事のハリスが修好通商条約締結を求めたことがきっかけである。実はこのとき老中の阿部正弘が朝廷の意見を求めながら検討を進めていたところ病死したのだ。このあたりから状況が一変。幕府の大老に彦根藩主の井伊直弼が就任。井伊は朝廷の許可を得ずして安政5年(1885)修好通商条約を締結。これに激怒した水戸藩士たちは、井伊大老を斬るべしと声を上げ始めた。
 これに対して長州藩も遅れを取ってはならないと、吉田松陰も水戸が井伊をやるならば長州藩は井伊の下で動いている老中の間部詮勝(まなべあきかつ)を誅すべしと主張し始める。

▼過激派松陰の本領!
 とくに幕府の老中・間部詮勝が朝廷を取締ろうとしているという情報に接して激怒した松陰は間部詮勝要撃計画を決行するため、塾生に声をかけた。そのうえで要撃隊を結成すると、長州藩に武器弾薬の供給を願い出るなど、大胆な行動に出て周囲を驚かせる。さらに藩主の乗った駕籠を拉致し、朝廷に護送し、密勅を願い出て幕府を改革するという伏見要駕策と呼ばれるアイデアを実行に移そうと試みる、しかし賛同者があらわれず、これも頓挫する。

 結局、長州藩にとって松陰は危険人物と判断されたため、松下村塾は閉鎖に追い込まれ、松陰は再び野山獄に収容されることになった。その後、ついに江戸幕府から松陰に対して、江戸への送還命令が届くのである。

 安政6年(1859)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられて江戸に向かうことになる。
 では、なぜ松陰に江戸幕府から召喚命令が下されたのか。

 それは小浜藩士で京で活躍した勤皇の志士・梅田雲浜(うめだうんぴん)が安政の大獄の最初の逮捕者になったとき、萩で松陰に出会ったという話をしたからである。このとき梅田は獄死したのだが、不審に思った幕府の役人は松陰を詰問するため、彼を召喚したのである。

 ▼江戸へ護送された松陰の最期とは
 やがて江戸の評定所に入った松陰が問われたのは、梅田雲浜と何を話したかという点と、京の御所に不逞(ふてい)な文書を置いたのではないか、という2点であったが、松陰はこの件に関して正直に話したところ、それは受け入れられた。だが、持ち前の行動力の炎が燃え上がったのか、あろうことか松陰は『間部詮勝要撃計画』や『伏見要駕策』の内容まで話し始めたため、仰天した役人たちは松陰を危険人物とみなしたのである。死を賭して話をした結果が、当然受け入れられないことは百も承知だったのであろう。結局、死を覚悟した彼は、家族に向けて『永訣の書』と門下生たちに向けて『留魂録』を伝馬町牢獄で執筆する。

 ちなみに、この『留魂録』は門下生たちに複写され、吉田松陰魂を伝える永遠の遺訓となった。

 やがて安政6年(1859)10月27日午前、評定所から死罪が申し渡されると、即日処刑が行なわれることになった。

 このとき死に際して平常心のままでいる松陰の姿に首斬り役の山田浅右衛門は胸を打たれたという。そのときの様子を彼はこう回顧している。
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、『御苦労様』と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は幕吏も深く感嘆した」
 その高潔さは幕府の役人まで感激させるほどであった。
 松陰は言った。
「吾れ今、国の為に死す
 死して君臣に背かず
 悠々たり天地の事
 鑚照、明神に在り」
(私は今、国の為に死ぬ。死んでも天皇や父母への教えに背いてはいない。天地は永遠で果てしない。私の行動が正しいか、どうかはすべて神が判断されることだ)

 この松陰の遺言が、やがて幕末を大きく転換させることになったのである。
 享年30歳であった。

▼吉田松陰の死後、長州藩はどうなったのか?
 処刑後、松陰の遺骸は10月29日、江戸にいた門人たちによって南千住小塚原の回向院に葬られ、その後、文久3年(1863)、江戸荏原郡若林村(現・世田谷区若林)に改葬された。
 なお松陰の墓は全国に存在しており、松陰の生誕地に隣接した墓所のほか、東京・小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)、東京の松陰神社内の墓には遺髪が納められている。また山口県下関の桜山神社にある招魂墓は高杉晋作の発案によって創建された幕末の志士たちの招魂塚である。多数の志士のなかでも一段高い場所に松陰の招魂墓が作られている。

 わずか30年という短い人生であったが、アメリカ渡航、間部暗殺計画、伏見要駕策など、いずれも失敗したにもかかわらず、松下村塾で彼が育てた萌芽は、彼の死後、見事に開花する。

 なぜなら、処刑の前日に脱稿した『留魂録』が遺言となり、これが獄中から密かに持ち出された結果、門人たちの間で回覧された。吉田松陰の叫びである留魂録は、彼らの魂に熱く、そして力強く響き渡ったのである。

 吉田松陰の死を知った高杉晋作は、上司の周布政之助にこんな手紙を書いている。
「ついに我が師は幕吏の手に掛かり殺されてしまいました。私は松陰の弟子として、きっとこの仇を討つつもりです」

 このとき高杉晋作は倒幕の決意を固めたという。そして万延元年(1860)2月7日、松陰の死後、100日目に親戚、門人が集って故人の霊を弔い、遺髪を萩に埋葬した。
 彼らは松陰の死によって高杉晋作同様、倒幕への思いを強くし、志士として活動することを決意。幕府が大罪を犯した人物と断定した松陰の墓には逆に誇りを持った17名の塾生が松下村塾の弟子として、自らの名を刻んだのである。

 その後、激動の時代を経て高杉晋作ら門下生たちの活躍によって明治維新が成り、政府内でも松下村塾出身者は内閣総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創業者2名を輩出している。

 現在、山口県萩市の松下村塾があったあたりに学問の神を祭る松陰神社が建立されている。また東京都世田谷区にも高杉晋作ら松下村塾の門人によって改葬された墓所に松陰神社が建てられている。

 ▼明治政府における松下村塾門下生の活躍
 明治時代を通して政府や陸海軍の要職を「薩長土肥」(薩摩・長州・土佐・肥前各藩)出身の有力者が独占したことを藩閥政治と呼んでいるが、そのほとんどは薩摩・長州出身者であった。

  明治4年(1871)の廃藩置県後に整備された官制において薩長土肥の出身者が参議や各省の卿の大半を独占したが、やがて西郷隆盛が下野し、西南戦争で自刃。さらに紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺されたことがきっかけとなって、薩摩閥は勢力が衰退した。これによって伊藤博文や山縣有朋ら松下村塾出身者を有する長州閥の独占状態となった。とくに明治時代の内閣の閣僚経験者は延べ79名で、そのうち薩摩藩は14名、長州藩14名、土佐藩9名、佐賀藩5名である。

 また陸海軍においては薩の海軍、長の陸軍と呼ばれ、薩摩閥では海軍の山本権兵衛、東郷平八郎、西郷従道らがおり、一方の陸軍では長州の乃木希典や児玉源太郎、山縣有朋、桂太郎らが権力を握っていた。のちに陸軍では山縣有朋の影響力が増し、桂太郎、寺内正毅や田中義一らが山縣閥を作り、陸軍内の主流派となった。さらに伊藤博文は岩倉使節団の一員としてヨーロッパの政治体制を学び、日本の立憲君主制の確立と大日本帝国憲法の起草に大きく貢献した。

 ところで第三代内閣総理大臣だった先の山縣有朋は「国軍の父」と称され、軍の統制を図っている。彼はのちの総理大臣人事にも発言力のあったキングメーカーとなり、第一次内閣総理大臣桂太郎や第18代内閣総理大臣の寺内正毅は山縣閥の人間であった。そのほか長州からは大村益次郎、井上馨、前原一誠、広沢真臣らがいた。
 こうして見ていくと明治政府のなかに吉田松陰の教えは確実に継承され、開国後の日本のキーマンは間違いなく松下村塾の門人たちであった。

 さて、もう少し松下村塾の話をしよう。

▼松門四天王とは?
 松下村塾の四人の英傑のことを「松門四天王」と呼んでいるが、これは高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎、入江杉蔵(九一)の四人のことである。

 彼らは松陰の志を受け継いだ塾生たちであったが、維新を前にして殉職している。
 彼らのほかにも、もちろん英傑はいる。それが伊藤博文(公爵)、山県有朋(公爵)、山田顕義(伯爵)、品川弥二郎(子爵)、野村靖(子爵)などのメンバーだ。

 当時は萩にあった藩校・明倫館は士族の者以外の入学は許されていなかったが、松下村塾はそうした差別はない。それは塾生たちの出身を見ればよくわかる。
 家老、留守居役などの上級武士や中・下級藩士、足軽、中間の軽卒、医者、商人、百姓、無頼人、囚人などで、約5割が士族、3割が足軽の子弟、2割が医者、僧侶、商人の子弟であった。前出の伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎、入江杉茂、吉田栄太郎、野村靖らは足軽出身である。

 ちなみに、吉田松陰は松下村塾入塾に対して、一つだけ条件をつけている。それは立身出世のための学問ではなく、「志に導かれた学問」の修得を塾生たちに強く求めたというものだ。そのため入塾に対して「どうして入塾したいのか?」「学問をなぜやりたいのか?」「どんな学問をしたいのか?」「将来、何をしたいのか?」という質問をし、志ある者には身分の差別なく入塾を許可している。

 当時の松陰は藩の父兄から「松陰先生は罪人なりとて、村塾に往くことを嫌ふ父兄多し、子弟の往くものあれば、読書の稽古ならばよけれども、御政事向の事を議することありては済まぬぞ、と戒告する程なり」といわれるほど不評を買っていたという。

 こうしたなか、彼らは親の反対を押し切ってでも入塾を希望したのである。その理由の一つは、やはり『飛耳長目』の存在であろう。こうしたニュースデータを基にした松陰の講義は現実に即したものであり、若者たちがこれからの時代にどう向き合い、どう生きていくかを明確に指し示したからこそ塾生は増え続けたのである。当時、私塾は全国に約1500あまり存在したが、松下村塾は下級武士を対象に「社会の改革をいかに成し遂げるか」という徹底した戦略のもとに指導を行なったため、わずか2年半の短期間にもかかわらず明治維新の原動力となる人材を次々に輩出したのである。

 実はそれまでの長州藩は水戸、薩摩、越前、土佐などの各藩に比べると改革を実行するという気概が見られなかった。ところが吉田松陰が松下村塾を開くのと、それに歩調を合わせるかのように幕末の改革をリードする雄藩へと変貌していったのである。

 その要因は、おおよそ五つ考えられる。
(1)平等思想
(2)松下村塾を開いたタイミング
(3)松下村塾の塾生の素質
(4)松陰の徹底した革命教育
(5)個性を伸ばす松陰の教育姿勢

 とくに吉田松陰が松下村塾を開いたときは、長州藩自体が非常事態に巻き込まれており、一人の危険思想家の考え方に時流の方から近寄ってきたことも幸いした。そのうえで「君臣の義」(天皇への忠誠)、「華夷の弁」(外国を打ち払う思想)という教育上の理念が決してブレなかったことも大きい。言ってみれば松下村塾こそが小さな明治維新の仮想空間であったのだ。

 あとは塾生たちが松下村塾の目指す世界を日本中に展開していけばよかったのである。
 いわば新しい日本のモデルハウスに生きていた塾生たちが他の幕末の志士よりも具体的イメージを持って動けたことも実に大きな意味があったのである。
 これが小さな一私塾で行なわれたことは奇跡的と言ってもよいだろう。

▼松下村塾の英雄たち
 これまで松下村塾の教育方針を解説してきたが、では一体、この松陰の教育によって、いかなる人物が生まれ、明治維新への道がどのようにして切り拓かれていったのか。先に述べた松下村塾の松門四天王を含む、英傑たちの足跡をたどりながら、そのメンバーをご紹介していこう。

〇久坂玄瑞――高杉晋作と並ぶ松下村塾の双璧。松陰から「年少防長第一流の人物なり。因って亦、天下の英才たり」と高く評価されている。長州藩の尊王攘夷派の中心人物で、藩医の三男として生まれ、藩の医学所・好生館では特待生に選ばれたほどの秀才だった。兄・玄機の知人の紹介で松陰に手紙を認め入塾を希望したところ、松陰は後章で述べるように強い非難の言葉を返信に書き連ねてよこしている。ちょうど安政4年(1857)で久坂玄瑞18歳のときのことだ。久坂玄瑞が松陰の妹・文を娶ったのは安政4年(1857)の暮れのことで、松陰は義弟となった玄瑞に厚い信頼を寄せている。また文久2年(1862)、坂本龍馬が萩の玄瑞を訪ねた際、彼が武市半平太から預かった手紙を手渡したところ、玄瑞は「諸侯恃むに足らず。公卿恃むに足らず。在野の草莽糾合、義挙の外は迚(とて)も策これ無き事と、私共同志中申し含みおり候事にござ候。失敬ながら尊藩(土佐藩)も幣藩(長州藩)も滅亡しても大義(尊皇攘夷)なれば苦しからず」と龍馬に草莽崛起を呼びかけ、半平太が一藩で勤皇を成し遂げようとすることをたしなめ、国や権力者など当てにするな、と決断を促してみせた。

 このように坂本龍馬のほかにも中岡慎太郎、西郷隆盛らに多大な影響を与えた久坂玄瑞だったが、禁門の変の戦闘のさ中、鷹司邸で被弾。炎上する屋敷の縁側で同志の寺島忠三郎とともに自刃した。(享年25歳)

〇高杉晋作――久坂玄瑞と並ぶ松下村塾の双璧。父・小忠太は藩主・毛利敬親の側近として息子の教育係であった。そのため父は名門に生まれた彼が、吉田松陰に近づくのを嫌っていたといわれ、忠孝第一を考えていた晋作も密かに松下村塾を訪ねていた。藩校・明倫館の大学部に進んだ年、浦賀沖にペリー艦隊が来航したが、その翌年、小忠太とともに江戸へ赴いた16歳の晋作は黒船再来航の騒ぎに衝撃を受け、帰藩後、尊皇攘夷思想に傾倒していった。松陰は彼の感性を高く評価していたが、当初は「学問は未熟で感覚で意見するところがある」と見定めていた。
 そこで晋作と先輩の玄瑞を競わせることで才能を開花させようとし、狙い通り彼は玄瑞とともに「竜虎」「双璧」と呼ばれるまでに成長する。安政の大獄で松陰が江戸に投獄されると晋作は、牢屋に通い金品などを届けている。松陰は「男の死に場所」を問う晋作に、「生きて大事をなすもよし。死んで肉体が滅んだとしても志は残るから、その死に価値はある」と手紙で伝えている。また遊学中に出会った横井小楠が福井藩主・松平春嶽の要請で福井藩の改革にあたった際、長崎貿易で巨利を得たことを教えられ、下関を開港して福井藩に倣おうとした。やがて藩命によって幕府の上海貿易視察団に参加。アヘン戦争に敗れた清朝・上海に上陸した彼は、そこで欧米列強が植民地にしているのを見て、日本も同様になるのではないか、と危機感を募らせ帰国。久坂玄瑞らと過激な攘夷運動を展開した。

 長州藩も藩論を公武合体から攘夷へ転換させており、下関で米国商船を砲撃するも、逆に米仏に反撃され惨敗する。このとき高杉晋作は藩主父子の前で「有志の士を募り、一隊を創立し、名付けて奇兵隊といわん」と提案。下級武士や庶民で結成された奇兵隊は幕長戦争、戊辰戦争でも活躍する。

 やがて長州藩は禁門の変、英米仏蘭の四ヶ国艦隊との戦いで疲弊すると幕府への恭順を決定。だが晋作は藩首脳部を俗論派、自分たちを正義派と分け、内戦を展開。わずか80名の正義派を率いた晋作は、下関で挙兵。奇兵隊などの援軍を得て、俗論派を破ると、政権を奪取。藩論を「武備恭順」(表向きは幕府に従いつつ内部では兵力を増強する)という和戦両用策に切り替える。慶応2年(1866)、朝敵とされた長州藩は第二次幕長戦争に臨んだ。

 晋作は海軍総督として小倉で大活躍したが、そのさなか持病の肺結核が悪化して戦線を離脱。翌年の春、27歳の生涯を閉じた。晋作の辞世「おもしろきこともなき世に」は死の前年、歌人・野村望東尼が見舞いに訪れたとき病床で詠んだもの。(享年27歳)

〇吉田稔麿――松下村塾の四天王の一人。萩の下級武士として生まれ、家が近かったことから松下村塾に通うようになった。少年時代は宝蔵院流の槍術、柳生新陰流の剣術を修め、松下村塾では兵学を修める。初期松下村塾の門下生として増野徳民、松浦松洞と共に「三無生」と呼ばれる。松陰から「陰頑にして皆人の駕馭を受けざる高等の人物なり」と高く評価される。

 長所も短所も自分に似ていると松陰から可愛がられた。放逸に走らぬようにと無逸の字を贈られている。松陰が間部暗殺計画によって再び野山獄に入ると、仲間たちと釈放運動を起こし、城下を騒がせたとして謹慎させられる。その後、親の言いつけによって松陰と距離を置いたが、師が江戸の獄に送られるときは、密かにこれを見送り、無言の別れを果たしたといわれている。松陰の没後は脱藩し、2年ほど諸国を巡り、江戸に入ると旗本・妻木田宮に仕えたが、やがて帰藩が許されていることから密命を受けて内偵をしていたと考えられる。

 奇兵隊に参加後、屠勇隊を創設。自らは「屠勇取立方」を拝命する。松陰死後も活躍したが、池田屋事件で元治元年(1864)、討ち死にする。(享年24歳)

〇入江九一――高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿と並ぶ松下村塾の四天王の一人。九一が松下村塾の門を叩いたのは、安政5年(1858)22歳のときであった。その2年前に父が他界し、長男の九一が家を支えていたが、他の塾生よりも遅い入塾であった。

 松陰は「忠義の志厚く、感心のもの」と評価した。勉学に熱心で誠実な九一を松陰は尊重し、刑死の直前に尊攘堂などの学問施設を建設するよう手紙を書き送っている。この手紙を後年見つけた品川弥二郎が建設を実行した。

 久坂、高杉などの門下生の大半が反対するなか、松陰の老中・間部詮勝要撃計画に加わるなど最後まで松陰と行動を共にした。九一宛ての手紙で松陰は「憂いの切々なる策の様なる吾の及ぶ能わざる」と評価するなど、九一の尊皇攘夷の精神は師をも上回るほどのものであった。高杉の奇兵隊創設にも協力したが、禁門の変で銃弾を受け自刃した。(享年28歳)

〇伊藤博文――高杉晋作の功山寺挙兵に力士隊を率いて参加。明治維新後は兵庫県知事の後、初代内閣総理大臣となり、以後、第5代・第7代・第10代と4次にわたり内閣総理大臣として内閣を組織。国政の発展に貢献した。明治42年、満州で安重根に暗殺される。(享年69歳)

〇山縣有朋――奇兵隊軍監として活躍した。明治維新後は明治22年に第九代内閣総理大臣に就任。明治31年にも第二次山縣内閣を発足させる。軍部を指導し、組織化したことから国軍の父と呼ばれている。山縣の松下村塾にいた期間は短かったが松陰に大きな影響を受け、狂介を名乗るほど終生畏敬の念を抱いていた。(享年85歳)

〇前原一誠――少年時代は瀬戸内海に面した厚狭郡船木村に移住し、陶器製造や農漁業に従事していた。安政4年(1857)、24歳の前原は父の勧めもあり、憧れの松陰の弟子となる。前原はこのときの決意を「先生の一言一句を聞き漏らさず忠義の心あつくして臨まなければならない」と書き残していた。

 再び船木に戻らねばならなくなったこともあって、松下村塾で松陰に学んだ期間は短かったが、松陰は熱心だった前原一誠に目をかけ、「勇有り、知有り、誠実さ人に過ぎる」と絶賛。玄瑞、晋作に才と誠は劣るが、人物の大きさは前原が勝ると評している。松陰の死後は長崎および藩内の西洋学問所で蘭学を学んだ。

 その後は、晋作、玄瑞らとともに行動し、幕長戦争や功山寺挙兵、戊辰戦争に従軍。とくに元治元年(1864)、晋作が俗論党打倒を掲げて挙兵した際、呼応したのは、わずか80名あまりだったが、このとき伊藤俊輔、石川小五郎らは諸隊を率いて集まった。しかし前原一誠は、たった一人、単騎で駆けつけたのである。前原は晋作とともに狂の精神を受け継いでいたといわれている。戊辰戦争では参謀として活躍する。

 維新後は参議や越後府判事に就任。越後では水害の際、民のため減税したが、政府からは独断専横だと批判された。さらに奇兵隊脱退騒動の鎮圧を批判したり、徴兵令に反対したことから、木戸、山縣らに疎まれ、下野した。そして明治9年(1876)、萩で反乱を起こし、処刑された。(享年43歳)

〇品川弥二郎――足軽の家に生まれた品川弥二郎は十四歳のとき松下村塾に入り、「弥二は人物をもって勝る」「情有る人」と松陰から、その人間味を高く評価されていた。また塾舎を増築した際、松陰の顔に壁土を落としてしまい、彼から「師の顔に泥を塗るということだな」と冗談を言われ、皆が笑ったというエピソードが残っている。

 松陰の死後は高杉晋作らと攘夷活動を展開。禁門の変では八幡隊などの諸隊に加わり奮戦した。薩長同盟では裏方として藩を支え、慶応元年(1865)、桂小五郎とともに京に潜入すると、情報探索や連絡係として活躍。また山田顕義らとともに御楯隊を組織。戊辰戦争では奥州鎮撫総督参謀となり、会津入りを巡って強硬派の世良修蔵と対立。3週間ほどで罷免されている。

 その後、箱館戦争では整武隊参謀として指揮を執った。新政府では農商務大輔、枢密顧問官など要職を歴任。第一次松方内閣で内務大臣を務める。

 また松陰が入江九一に託した尊攘堂建設依頼の手紙を発見すると自らが実行してみせている。民間では現在の獨協学園(獨協大学)や、京華学園(京華中学・高校)を創立。(享年58歳)

〇山田顕義――藩校・明倫館に入ったあと安政4年(1857)、14歳のとき松下村塾に入る。元服した山田は松陰から扇面に記した詩文を贈られている。文久2年(1862)に上京すると、禁門の変や功山寺挙兵、戊辰戦争に軍師として参戦。明治七年の「佐賀の乱」、明治10年の「西南の役」で征討軍の将として戦った。

 これは少年時代から松陰を教えていた叔父・山田亦助が長沼流兵学者であったことによるといわれている。また長州藩の大村益次郎からも西洋兵学を学んだことも大いに関係している。

 明治2年(1869)暗殺者の手にかかった大村益次郎の最後の指示を受け、兵部省の設立などを実現した。明治維新政府では明治18年から初代司法大臣として入閣。以後、四代の内閣で司法大臣を務める。日本大学の前身、日本法律学校を創設。翌年、國學院(現・國學院大學)を設立した。(享年49歳)

〇野村靖――入江九一の弟。兄とともに老中・間部詮勝襲撃計画に加わるなど最後まで師・松陰に従った。維新後、神奈川県令、枢密院顧問官、駐仏公使などを歴任。第二次伊藤内閣では内務大臣、第二次松方内閣では逓信大臣にも就任。現存する『留魂録』を松陰の死から17年後、元牢名主の沼崎吉五郎から受け取っている。(享年68歳)

〇正木退蔵――現・東京工業大学の初代校長。ハワイ領事を務める。明治4年、ロンドン大学で化学を学ぶため留学。帰国後、再度渡英している。このとき「宝島」で有名な文豪R・H・スティーブンソンに松陰の話を聞かせる。

 その話に感銘を受けたスティーブンソンは後に世界初の吉田松陰の伝記『YOSHIDA――TORAJIRO』を執筆した。いわば吉田松陰を世界に知らしめた人物。(享年51歳)

〇松浦松洞――松陰が主宰した初期の松下村塾門下生で「三無生」の一人。松陰から「才あり気あり、一奇男子なり」と評された。商家に生まれたが、その才覚を見込まれ、藩士・根来(ねごろ)主馬の家臣となる。

 また幼いころから画才があり、上洛して南画家の小田海僊(かいせん)に弟子入りし、安政の大獄の際、吉田松陰の肖像を描いた人物で公武合体を唱える長井雅楽の暗殺を企てるも、果たせないまま京都で自害した。(享年26歳)

〇増野徳民――松陰が主宰した初期の松下村塾の門人で「三無生」の一人。文久3年に久坂玄瑞らによる長井雅楽暗殺計画に加わろうとして失敗。これ以後、故郷で医業に専念。慶応2年の四境戦争の際は芸州口へ軍医として赴いている。(享年37歳)

〇木戸孝允――桂小五郎(のちの木戸孝允)は藩医の長男に生まれ、7歳のとき藩士・桂孝古の養子となった。10代になると漢詩や『孟子』の解説において藩主・毛利敬親より褒賞を受け、その才能を知らしめる。

 やがて剣術にも邁進し、後年、江戸の名門・練兵館で5年間、塾頭を務めて剣豪として名を馳せた。松陰との出会いは嘉永2年(1849)、明倫館で松陰から山鹿流兵学を学び、それ以降、兄事する。松陰は3歳年下の小五郎を「事を成すの才あり」「我の重んずるところなり」と評して心を許していた。

 松陰は晋作や玄瑞たちの兄貴分として小五郎を位置づけていた。その小五郎は黒船来航に衝撃を受け、台場造営に功績のあった江川英龍に入門。西洋兵学や砲術を学んだ。その後、松陰からロシア密航計画を打ち明けられ、協力を申し出るが、小五郎の身を守るため松陰はこれを断っている。やがて松陰の死後、尊攘派として本格的に活動を開始。

 万延元年(1860)、水戸藩と幕政改革に関する密約を結び、2年後、藩主に働きかけて公武合体路線を取っていた藩論を攘夷に転換させた。こうした外交官としての手腕もさることながら、生存能力は志士の中でも抜群で、馴染みの芸妓・幾松(のちの松子夫人)らの助けを得て禁門の変の際には但馬国(兵庫県)出石まで逃げている。

 やがて高杉晋作が藩の実権を掌握すると、その求めに応じて帰藩。このとき藩命で木戸孝允を名乗る。翌慶応2年、藩長同盟締結の際は藩代表として参席し、坂本龍馬に密約の裏書き、つまり保証人を依頼している。新政府では参与。『五箇条御誓文』の起草に参画し、版籍奉還の実現に尽力。西郷隆盛、大久保利通とともに「維新三傑」として知られている。だが西南戦争のさなか、病気が悪化し死去した。(享年45歳)

 以上が松陰と松下村塾門人たちの事蹟である。

 では、なぜ彼らは日本を動かすことができたのか。実は吉田松陰と松下村塾にはもう一つの顔があったのだ。その真実の姿に迫ったのが拙著『吉田松陰と松下村塾の秘密と謎』である。お時間のある方は、ぜひご一読いただきたい。なお本書のなかで坂本龍馬暗殺事件が登場するが、あくまでテーマが吉田松陰と松下村塾であるため、詳細は触れていないが、いずれ別の場所で明らかにしていきたいと考えている。

 それではご体調に十分お気をつけてください。再びこのHP上でお会いしましょう。
中見利男拝
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